1989年
『ティガーの朝食』(講談社・講談社文庫)
『群像』に連載された三つの連作「森からやってきたティガー」「風の強い日おめでとう」「プーさんの誕生日」をまとめたもの。連作だが、ひとつの小説としても成立している。二歳半の娘はA・A・ミルンの童話「クマのプーさん」が大好きで、ある時自分はプーさんになってしまう。母親は、気が弱くいつもプーサンを頼りにしているコブタ君に、主人公の父親は時々森の奥かたやってきてはプーさんやコブタ君やロバのイーヨーを驚かせるトラのティガーにさせられる。 発表当時、主人公は責任感がないだの、ここに登場する子供のほうが遥かにしっかりしているだのと、年上の批評家や作家に文芸誌や新聞の時評でメチャクチャ叩かれた。おまけに、若い女の子達にはオジン臭いと評判が悪かった。ぼくは、教師や親父に説教ばかりされていた高校生の頃を思い出したりした。装丁をしてくれたのは『アン・アン』などで有名な飯田淳氏で、ぼくはこの本のデザインがとても好きだ。
『蜂の王様』(角川書店・角川文庫)
ある日、見城徹氏が電話してきた。絶対売れる企画があるんだけど、と彼は言う。話を聞くと、高見沢俊彦氏が自分を主人公にぼくに小説を書いてほしいと言っている、ということだった。そんなことは不可能だと思い、ぼくは断った。断るにせよとにかく彼に一度会ってくれと言われ、六本木の店で食事した。いろいろな話をし、けれどその夜別れる時にも「そんなの絶対無理だからさ。小説書くなら自分で書きなよ」とぼくは言った。そんなふうに彼とのつき合いが始まり、結局ぼくはやってみることにした。彼と自分の間に、生身の人間が小説を書くのに必要な共通項を発見することができたからだ。本が出版されてからというもの、連日抗議の手紙が届けられた。高見沢俊彦氏のファン達からの「高見沢さんはあんなにひどい人ではない」という手紙と、ぼく自身のファン達からの「そういう姿勢で小説を書いてもいいのか」という内容の手紙がぼくの机に山積みにされるハメになった。彼のファンクラブは、この本の不買運動までやったのだそうだ。高見沢氏のほうにも手紙はいっぱいいったらしい。手紙ばかりか、コンサートのステージに出ると「このスケベェ!」という野次が飛び、参りましたよ、と彼は言っていた。ぼくらは電話でこぼし合っていた。文庫の解説でルーディーズ・クラブの藤竹俊也が「山川さんは、高見沢俊彦という実在する人物のイメージを借りて、思う存分自分をさらけ出している」と書いている。なーるほどね、とぼくは思ったものだ。鋭いじゃん、と。いずれにせよ、互いにどこにいたとしても、ぼくと高見沢俊彦は貴重な深い時間を共有した友達である。なあ、このページを見輝てるかい? そのうちどっかで酒でも飲もうぜ! ……しかし、『ティガーの朝食』と『蜂の王様』に浴びせ掛けられた非難の渦は、ぼくにしばらく小説というものを書く意欲を失わせるに充分だった。『さよならの挨拶を』や『水晶の夜』を書いた時の、周囲のあの空気はどこへいってしまったのだろう、冗談じゃねーよ、と思いながらぼくは80年代の終わりを迎えようとしていた。
『ブルースマンの恋』(東京書籍)
ぼくが初めて出版したCDブックである。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェームス、サン・ハウス、ロバート・ジョンソン、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイー、ロバート・ナイトホーク&エセル・メイ、ジミー・リード、それからボー・ディドリーの恋と人生を本で紹介し、CDに彼らの曲を収録した。ぼくと編集担当の小島岳彦君と、ブック・デザインをやってくれたスタジオ・ギブの山岡茂氏と共同印刷のスタッフで、どういう方法でCDをパッキングするか検討を重ねた。ぼくは面倒臭いことを言うだけだったが、スタッフがいろいろアイディアを出し丁寧な仕事をしてくれた。何度か見本を作ってもらい、細部を直しながら今の形でいくことになった。CDが本のおまけではなく、本のほうが申し訳程度の解説ではなく、音楽と言葉が共に自立し自己主張しながらひとつの世界を表現するような、そういうCDブックでないと出す意味がないと思った。ブルースのアルバムは通常五、六千売れればいいほうで、だからこの本もそれぐらい売れればいいと思っていた。十代の頃からお世話になったブルースマンをぼくより若い世代に紹介するのは、彼らに対するささやかな恩返しのつもりだった。だがそれはとんでもない思い上がりで、ブルースは生きていた。この本は予想を越えて需要があり、今も売れつづけている。だがそれにしても、ブック・カヴァーの犬の眼は何度見ても凄い。あの眼は、まったくブルースそのものである。
『印象派の冒険』(講談社)
旅行雑誌『るるぶ』に執筆した長編エッセイだ。ゴッホ、ゴーガン、ルノワール、セザンヌ、モネ、ロートレックといった画家のアトリエや彼らが描いた風景を探してぼくはフランスをドライヴした。旅は一カ月に及んだ。印象派の絵画はぼくにとって、長年のテーマだった。印象派の絵画は、抽象絵画が出現する直前の、実り豊かな果実なのだとぼくは思っている。ひどく抽象的な時代を生きながら、ぼくは自分の祖父にあたるような画家達の呼吸を感じたかった。旅行記としても読めるように書いたつもりなので、いっしょにフランスを旅する気持ちで読んでくれるとうれしい。
『セイヴ・ザ・ランド』(講談社)
なんとか小説を書く気力を取り戻し、重い腰を上げて取り組んだのがこの書き下ろし長編。簡単に言ってしまえば、破滅に向かって走りつづけるわれわれにのこされたのは、最早セックスの快楽以外にあり得ないのではないか、というのがテーマだ。だがタイトルから、あいつはエコロジストになったらしいと思われてしまった節がある。この本は1989年の12月に出版され、年が明けてからぼくは同名のソロ・アルバムをリリースした。この小説がきっかけになり、毎月ライヴを1回と、ライヴ・ハウスで<ロックス・オフ>というトーク・ショーを2年にわたりつづけた。正直言って、へとへとになった。いろいろな意味で、ふたつの『セイヴ・ザ・ランド』は表現者としてのぼくの前半戦の終わりを告げる作品になったのだろうと思う。敗色濃厚だが、あきらめるわけにはいかない、というやつである。
『ブランク・セヴンティーズ』(集英社)
失われた70年代の愛と青春、というのがオビのコピーだ。「すばる」に書いた「綿花少女」は、ぼく自身の青春そのものといった感じで、懐かしい。「Grand Prixの冒険者」は、今だから明かすがオートバイ・レーサーとしてワールド・チャンピオンになった片山敬済氏がモデルだ。ぼくと彼は仲良しで、一時期はしょっ中会っていたのだが、彼から聞いたオートバイ・レースの世界を描いてみたいと思ってこの小説を書いた。「パーティは終わった」はじつは高校時代の習作に手を入れたもので、「煙草とその周辺の話」にはぼくの高校時代が描かれている。誰もがあの狂ったような1970年代を乗り越えなければならなかったのだということを、ぼくは1990年代を迎える前に確認しておきたかった。
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